垂井宿〜赤坂宿
(1998.11.1)


 JR垂井駅からまっすぐ北へ進み,中山道へ出て右へ折れる.道は程なく相川を渡る.この川はあばれ川で架橋が難しかったことから,江戸初期から人足渡しであったという.橋を渡り終えると大垣道(美濃路)との追分に出る.ここには1709(宝永6)年に建てられた道標が残り,「右東海道大垣みち,左木曾街道たにぐみみち」と記されている.
 しばらく田園地帯の中を歩くと,街道から少し北へはずれたところに美濃国分寺跡がある.国分寺は741(天平13)年聖武天皇の勅願によって全国に建立されたが,ここ美濃国分寺は水田に埋没していたため,ほぼ完全な形で発掘調査が可能であり,その結果,法隆寺式の伽藍配置だった事が明らかになっている.一帯は発掘調査の後,埋め戻され,芝生が植えられて史跡公園として整備され市民の憩いの場所となっている.わたしもしばし,芝生の上に腰をおろし,天平の時代に思いを馳せた.すぐそばには大垣市の歴史民俗資料館もある.

中山道と大垣道との追分

追分の道標

 美濃国分寺から中山道に戻り,しばらく歩いて東海道本線(下り)の高架をくぐる頃,近くに山肌が削られて無惨な姿になった山々が見えてくると間もなく赤坂宿である.赤坂は石灰石の産地であり,私の幼い頃は家々の屋根は石灰の粉で真っ白になっていた記憶があるが,今では工場の集塵装置が整ったせいか,とてもきれいな町になった.赤坂はまた化石の産地でもある.フズリナなどの海底動物の化石が多く見つかっており,太古の赤坂は海の底であったことを示している.赤坂で採れた化石を展示する化石館が金生山の麓にある.
 赤坂宿は古い建物がよく保存されており,お茶屋敷跡もそのひとつである.お茶屋敷とは,将軍が上洛の往復に利用した将軍専用の休憩所である.敷地の西半分は赤坂中学校となってしまっているが,中山道筋に残るお茶屋敷としては唯一もので,今は矢橋家のボタン園となり,毎年4月下旬に一般に公開されている.
 私が赤坂宿を訪れた時,ちょうど「中山道赤坂宿まつり」が催されていた.宿内は歩行者天国になり,皇女和宮の行列を再現したパレードやフリーマーケット,スタンプラリーなどで賑わっていた.
 今回は中山道赤坂宿の本陣前で旅ににピリオドを打った.垂井宿から1里12町(約5.2km)の旅であった.本陣前で中山道から別れて南に折れ,JR美濃赤坂駅から大垣へ帰ることにした.蛇足ながら,JRの美濃赤坂〜大垣間5kmは,赤坂で採れた石灰や大理石の運搬のためにつくられた東海道本線の支線である.

赤坂宿の町並み

JR美濃赤坂駅


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